これはナル・ファーティマさんの通った道だった。彼女は半年前にブルックリンへ移住し、すぐさまスカーフを外した。同じドアをノラ・エルハイニーさんも歩いた。彼女はクイーンズで電器製品を売っている。そしてアフメド・ユーセフさんはジャージー・シティに居を構えたエジプト人で、豪華なモスクで祈りを呼びかけている。
「私はこの国で自由になりました」とこファーティマさん(25)は言う。「あらゆるものから自由になりました。考える自由を得ました」
9月11日の事件は、米国に住むイスラム教徒たちの生活を一転させた。エジプト、パキスタン、モロッコなどからの移民の流れは著しく細くなった。
だが5年が過ぎ、米国がなおテロ、市民の自由、移民の管理に四苦八苦する中、イスラム教徒たちは再び驚くべき人数で移住しているようだ。国土安全保障省と米商務省の統計が示している。
移住者の中でも中東、北アフリカ、アジアなどイスラム教徒が優勢な国々から来た人々は、新しい根をヴァージニアからテキサス、カリフォルニアまで張っている。
2005年、イスラム教の国から来た人々が米国の永住者になった数� ��約96000人。過去20年のどの年よりも多かった。
そのうち4万人は、昨年入国した。同時テロ以来、単年度では一番多い人数だ。データは国土安全保障省が提供した22カ国の情報による。
多くの人々は移住が困難であっても根を上げなかった。アメリカの中東政策に反対していてもやめることはなかった。彼らが求めていたものは、アメリカに来る外国人を何十年も引きつけてきたのと同じ約束である。多くの専門家や先人たちが指摘する。それは経済的なチャンスと政治の自由だ。
それらの魅力は、強力でもあり身近なものでもあったため、恐怖を克服するには十分だった。アメリカはイスラム教徒たちにとって冷たい国だとされていた。
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「アメリカはイスラム教徒であろうとなかろうと、約束された国です」とベフザド・ヤーマイアンさんは言う。彼はイランからの逃亡者で、「異教徒を抱きしめて:西へ旅立ったイスラム移住者たちの物語」の著者だ。「イスラム教徒たちがアメリカの外交政策に反対していようとも、アメリカに来ることをやめようとしない理由は、祖国では得られないものをこの国が与えてくれるからです」
ファーティマさんにとっては、好きな服を身につける自由であり、警備員として働く自由だった。ユーセフさんにとっては、修士号を取得する自由だった。
彼は深い不安にもかかわらず米国にやってきた。多くのエジプト人は、イラク戦争� ��ブッシュ政権について懸念を抱いていた。アメリカでは、政治と人は分けて考えなければいけないと彼は言う。
「私はだれと関わっているのか。ブッシュ大統領なのか、アメリカの人々なのか」と彼は言う。「エジプトでの将来に取り組んでいるのか、ここでの未来なのか」
イスラム教徒たちが米国に大挙して定住するようになったのは60年代半ば以降のことだ。東欧を優先していた移住割り当てが取り除かれた後である。広々としたモスクがシカゴ、ロサンゼルス、ニューヨークにオープンし、高い教育を受けたイスラム教徒たちが引き継いだ。
60年代以降の30年間、アメリカにイスラム教徒が移住する物語は、成長と繁栄で満ちていた。イスラム教徒たちの方が学位を得る率は、アメリカ市民よりも高かった。� �商務省によれば、平均年収も20%高かった。
だが9・11によって、アメリカでのイスラム教徒たちの生活は変わってしまった。モスクは破壊され、人種間対立から起こる犯罪が増えた。国外追放の手続きが数千人を対象に始まった。
イスラム教徒の中には、職業差別を避けるために名前を変える者もいた。モハメッドを「モー」に、オサマを「サム」に。多くの家族がカナダへ逃げた。
だが、この期間がもたらしたものには際だって前向きなものもあった。多くのイスラム教徒にはそう映った。政治的、社会的に結集するようになったのだ。国中に、草の根のグループが広がってイスラム教徒に市民の権利を教え、愛国法のような新しい連邦政策に対抗できるよう名前を登録した。
「選択として内に閉じこもるか� �に向かっていくかでした」。ムスリム教徒の市民権と選挙権の獲得活動をするカリフォルニア州ニューアークのアグハ・サエードさんは言う。「私たちは外に向かったのです」
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見方によっては、現在のイスラム教徒の移住者たちの風向きはよい、9・11後のアメリカではましだ、とイスラム教の指導者は言う。イスラムの組織はより堅固になり、英会話学校や法的支援などが身近になっている。
だが、これらのモスクから一歩外に出れば、多くのイスラム教徒にとって人生は困難なままだ。嘲りを避けるために、女性は人前でスカーフを巻かないように注意されることが多い。9カ月前にブルックリンへやってきたパキスタン人のルバーブ・ラズヴィ(21)さんもそうだった。(彼女は忠告を無視した。バスの中でじろじろ見られたけれど)イスラム教徒たちは未だに空港で長時間待たされる。尋問のために引き留められるのだ 。
長い年月をアメリカで過ごしている移住者の一部にとっては、新しくアメリカにやってくる人々の生活は、とうてい以前の平和な時代とは比べるべくもない。
「彼らは9・11前のアメリカを見ていないのだから」とカワジャ・ミザン・ハッサン(42)さんは言う。彼は30年前にバングラデシュを出てきた。クイーンズにあるモスク、ジャマイカ・ムスリム・センターの事務局長になり、ニューヨーク市役所に居心地のよい仕事を持っている。
だが、9・11の後、彼はケネディ空港で検問に引っかかった。名前が監視リストに載っていたというのだ。
落ち込みと急増
米国にはおよそ600万人のイスラム教徒が暮らしているといわれている。商務省と国土安全保障省は宗教別の統計をとってい ないが、イスラム教徒が優勢な国別の統計は集めている。移住者の多くはイスラム教徒とみられるが、ほかの宗教の人々、イラクのカルデア教徒やエジプトのコプト族たちも相当数いると思われる。
これらの地域から来る移住者たちは、9・11以降しだいに減っていった。グリーンカードや一時渡航者用ビザを発給される人も減った。03年までに、22のイスラム国からやってくる移住者の数は、3分の1以上減った。これらの国々の生徒、旅行者、ほかの一時渡航者にとってはもっと劇的な落ち込みを見せ、ほぼ半減するに至った。
その落ち込みは、アメリカが入国を厳しくしたために世界中の移住者に影響を与えたが、パキスタン、モロッコ、イラン、ほかのイスラム教国からの移住者が最も打撃を受けた。
その減少を説明する要因がいくつかある。安全保障が高められたために多くのビザ申請が却下されたと、国土安全保障省などは説明している。ビザを申請する人も減ったとしている。
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だが04年から、人数は再び上昇に転じた。商務省によると、バングラデシュ、トルコ、アルジェリア、その他のイスラム教国からアメリカへやって来る人々の数は、20%増えた。
その上昇は一時渡航者ビザを適用された外国人にも同じように当てはまる。例えば5万5000人以上のインドネシア人に昨年、ビザが発給された。02年には約3万6000人だった。
この上昇には、安全基準が緩やかになった要素は反映されていない。だが、ビザの申請者が増えたことと手続きがスムーズになったことを示している国土安全保障省のクリス・ベントレーさんは言う。
ほかの移住者と同じく、イスラム教徒はアメリカへの移住方法を多く見つけてい る。避難民としてやってきたり、学生や観光客としてやってきたりしている。あるいは、当地の親戚に移住ビザをとってもらう。運の良い一握りはグリーンカードを手にする。
アーメド・ユーセフさん(29)も、くじに当たるとは思わなかった一人だ。だが03年、エジプトでアラビア語教師をしていたユーセフさんは、世界中で950万人の中からランダムに選ばれた5万人に入った。
カイロの北部の都市ベンハを発とうとしていたとき、友人たちには「イラクとアフガンで人殺しをしている」国に移住しようとしているんだと言われた。だがアメリカ行きを勇気づけてくれる人もいた。
彼は05年5月に渡米。ホットドッグのカートへ荷を積む仕事を見つけ、夜明けから日暮れまで働いた。ほかのエジプト人とワシン� ��ン・ハイツのアパートで共同生活を始めたが、最初の月は、日中に同居人の姿を目にすることはなかった。
「よくルームメイツに冗談を言ったんです。『いつになったらアメリカを見られるんだ』って」とユーセフさんは言った。薄い黒髪と気さくな笑顔をたたえた人だ。
ユーセフさんは3カ月後、7番街でホットドッグを売り始めたとき、ようやく新しい国を肌で感じるようになる。
彼は祈りを呼びかける放送をなつかしみ、カートの側に祈祷用マットを拡げていても気にしなかった。そのうち他の売り子たちから注意されるようになった。原理主義者たちに間違えられると忠告された。
最終的に、ユーセフさんはジャージー・シティのイスラム・センターで秘書としての職を得た。コロンビア大学でアラビア語を� ��攻し、修士号を取得する計画もある。今ではモスクの上の空き部屋に住んでいる。ベッドの近くには、祈りの記録帳を置いてある。時間通りに祈ることができたら、アラビア語で「正常」と書くのだ。「ホットドッグを売っているよりずっといい」とユーセフさんは言った。
はためくアメリカ国旗
ナー・ファーティマさんは幸先のよい時期にブルックリンのミッドウッドにやってきた。もし3年早く来ていたら、身の回りは混乱の極みになっていただろう。
パキスタンからの何百人もの移住者が、政府に登録するよう言われて姿を消した。リトル・パキスタンとして知られるコニー・アイランド通りから30もの店が消えた。地元の小学校でウルドゥ語を話す児童の数は、02年度は半減した。
だが、残っていたリトル・パキスタンの人々は一致団結した。地元のビジネスマン、モー・ラズヴィさんはアンティーク・ショップをコミュニティ・センターに変え、法律アドバイス、コンピューター・クラス、英会話学校などを提供した。地元のイスラム教指導者たちは、当局と連� �し関係回復に努めた。
毎年開催されるパキスタンの独立記念日パレードでは、アメリカ国旗がはためいている。
その光景は全国のイスラム系移住社会で見られる。
「イスラム教徒たちが証明しなければならないことは、イスラム系アメリカ人として暮らしているということであって、パキスタン人やエジプト人などとして暮らしているのではないということです」。ジョージタウン大学でアメリカ・イスラム学プログラムの責任者を勤めるザヒド・ブハリさんは言う。
ファーティマさんは3月に移住ビザでパキスタンからブルックリンへやってきた。ラズビさんのセンターで英語の授業をとりはじめた。
かつて地元の人たちが苦労した話を聞いたが、自分は違う絵を心に描いている。
「この国はチャンスに満ちています」とファーティマさんは言う。「だれにでも等しく」
ブルックリンに来て5日後、ファーティマさんはス� �ーフを脱いだ。それは10歳から身につけていた。考えを変え始めた、とファーティマさんは話す。だれもがプライバシーを尊重し、互いの宗教的、社会的選択に口を差し挟まない国が気にいったというのだ。
彼女は言った。「私がアメリカにやってきたのは、自分を向上させたいからです。ここは私の第2のふるさとです」
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